「オタクであること」をアイデンティティにするのはやめとけよ

私はオタクだ。常に推しがいて、推しを追いかけることを生き甲斐にしている。去年決死の思いで転職したのだって、推し活のお金が足りなくなり必要に迫られたからだった。

物心ついたころからこんなだったから(もちろん当時は「推し」なんて言葉なかったが)、何かのオタクじゃない人が普段何を考え、何のために働き、どういう暮らしをしているのかさっぱりわからない。

今も付き合いのある友人たちとは「推しへの愛」をきっかけにして仲良くなった。推しが同じである必要は一切ない。ただ自分が夢中になっているものの話をしあって時に爆笑し時に泣き時に支え合い、そんなことをしていたら何年も経っていた。

家のディスプレイ棚はアクスタで溢れかえり、先日いよいよ増設した。いつかオシャレな間接照明を置こうと思ってあけておいたスペースは、あっけなく推しのグッズ達に陣取られた。だが本望だ。

このように、私はオタクだ。

だが「オタクであること」を己のアイデンティティにするのは非常にまずいことを知っている。だからどんなに推しにのめり込んだとしても「オタクである自分」を心の拠り所にしすぎないようにしている。

「オタクであること」をアイデンティティにしない方がよい理由はひとつだ。オタクでなくなった瞬間、自分が自分でなくなってしまうからだ。そしてオタクでなくなる瞬間というのは、案外そこかしこに転がっている。

私は結婚した時にこれを一番強く感じた。私の場合はマリッジブルーが酷くて何に対しても興味を失っていた時期が半年ほどあったため「これが世に言う脱オタってやつか…ついに私にもこの時が来てしまった」と思って本当に悲しかったものだ。結局それは気のせいで、マリッジブルーが落ち着いてきた頃に新しいジャンルにがっつりハマり、無事オタク魂は息を吹き返した。オタクってやっぱそう簡単にはやめられねえんだなと思った。まだ新しいものにハマれるエネルギーが自分の中に残っているのがわかったことが何より嬉しかった。

オタクの自分がなりを潜めていた半年間、私は空っぽだった。私は何者でもないのだと痛感した。「オタクであること」にウエイトを置きすぎていたことにその時初めて気がついた。

いつかオタクでなくなる日が来たとしても空っぽではない自分を作っておくべきなのだ。それは全然恥ずかしいことじゃないし、推しに本気じゃないなんてことにはならない。近年の推し活はちょっと行き過ぎだと思う。別に本人がやりたければいくらでもやればいいが「推しのために生活を崩壊させてこそ真のオタク」みたいな風潮を真に受けて自分のキャパを超えたことを続けていたら、確実にいつか己の身を滅ぼす。それはもう推しへの愛なんかじゃなくて、他者からの承認欲求やちっぽけなプライドだ。そんなものに振り回されても、推しは救ってくれない。むしろ推しに救いを求めるようになったら止めどきだ。楽しく推せなくなったら、自分の人生本当にこれでいいのか立ち止まって考え直すべきなのかもしれない。

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