私は老若男女、ありとあらゆる人種の人がわんさか訪れる場所で働いているのだが、切実に思っていることがある。
職員の名札を絶対に偽名にするべき、ということだ。
私だけじゃない、接客業に携わっている人たちみんな思っていると思う。実際もう名札を「スタッフA」とか本名じゃない名前にしているところもあると聞く。心の底からうらやましい。
そう思うようになったきっかけの出来事は、去年の暮れに起こった。
私の応対が気に入らなかったらしい爺さんが、私の名札をチラリと見て「アンタ、下の名前は?」と聞いてきたのだ。
私はギョッと思い、とっさに偽名を答えた。
爺さんは「そうか」と言ったきり無言で帰っていった。そこはかとない薄気味悪さが残り、その日はしばらく心がざわざわしていた。
私の名字は決して珍しくはないが、クラスや職場でかぶるようなことは滅多にない。後からクレームを入れたいだけなら名字で十分なはずだ。
このご時世に怖いのはSNSから個人を特定されることだ。私は本名フルネームで堂々とSNSをやるような人生は歩んでこなかったためその心配はあまりなかったが、どこから足がつくかわかったもんじゃない。どこの誰とも知れない爺さんに本名なんて知られないに越したことはない。
結局その後私宛のクレームが入ることもなく、爺さんの真意は謎のままだった。
この一件以来「名札って偽名でいいじゃん」と思うようになっていたのだが、つい先日「絶対偽名にするべきだ」にまで至る事件が起こった。
50代くらいの女性のお客さんが「佐藤という担当者から電話をもらったので来ました」というのだ。
佐藤。一瞬にして職場にいる佐藤たちが脳内を駆け巡った。どれだ。どの佐藤なんだ。もっとヒントがほしい。
アポイントの内容から佐藤を特定しようとしたが、お客さんの話がなんだか的を得ない。電話で直接来てくれと言われたから来たのだ、ということを繰り返すばかりで一向に話が広がらない。
とりあえず最初に思い浮かんだ佐藤をとっ捕まえて聞いてみたが、そんな約束はしていないと言う。別の佐藤にも同じく知らないと言われてしまった。隣の隣の部署の佐藤にも聞きに行ったが首を振られ、私は途方に暮れた。私の知っている佐藤は出し切った。きっとこのお客が約束したのは私の知らない佐藤なのだろう。
あてどなくさまよっていたところ、同僚が「全然別の部署にもう一人佐藤がいるからその人ではないか」と言い出した。可能性は低そうだと思ったが、もう他に佐藤を知らないので内線をかけて聞いてみたところ、なんとビンゴだった。私はようやく佐藤から解放されたのだ。
当たり前だが、「佐藤」に罪はない。「伊藤」にも「鈴木」にも「高橋」にも、誰にも罪はない。きっと今回の佐藤だって、職場内に何人も佐藤がいることをわかっていて、お客さんに部署名などを伝えていたはずだ。ちょっとお客さんがせっかちでそそっかしかったが故に情報伝達がうまくいかなかっただけで、何かしらの対策を取っていたはずだ。
それでもやっぱりこういうことは起きるのだ。これはもう、名前をかぶらせないようにするしかない。つまり、偽名である。
AとかBとかだとちょっと機械的すぎてディストピア感が出てしまうので、やっぱり自分で好きな名前を決めたらいいんじゃないか。そうすれば人とかぶらないようにできるし、なによりテンションが上がる。
推しの名前にするも良し、偽名丸出しのゴツイ名前にするも良し、ガチ恋しているキャラの名前にして夢女子を満喫するも良し…可能性は無限大である。
名前ひとつでこんなに楽しめるのに、個人情報も守られるというおまけまでついてくるなんて、なんてお得なんだろう。
そんなことばかり考えていたら一日が終わっていた。アラサーオタクの日常は今日も平和であった。